2011.8
詩文集:ないところにあるドア I
詩塾δ
JR我孫子駅南口を出て小さなロータリーを半周し,駅からみて真正面の通りを進むと,国道365号線(我孫子市から銚子市に至る一般国道)と交わる交差点がある.そこを突っ切ってさらに進むと,道はゆるやかな下り坂となり,10分ほどで手賀沼公園にたどりつく.入り口の角に市民図書館と地区公民館を兼ねた複合施設“我孫子市生涯学習センター「アビスタ」”のモダンな建物が建っている,冬は公園の木立の間から手賀沼の水面が光と戯れているのが見える.
手賀沼は,自転車で一周しても1時間半近くかかる比較的大きな沼である(かつては現在の4倍ほどの広さがあったが江戸時代以降干拓事業が進み,8割近くが水田になったという).沼畔の遊歩道を東に1kmほど歩くと,県道8号(船橋我孫子線)が通る手賀大橋のアーチの下をくぐりぬけることになる.水辺にはヨットのための船着き場.その先は広場と水の館,鳥の博物館の一帯だ.水中に河童に囲まれた噴水がある.
庵他誰亭が4年ほど前に詩塾“δ”をひらいたのは,その噴水の近くの水の中だ.8畳ほどの広さの透明な立方体の塾.
広告を一切していないので,その存在は世間からまったく知られていない.仮に何かの拍子に名が知られることがあっても,その所在は不明のままだろう.というのも,看板がないのはもちろん,水の中の立方体にアプローチする道がどこにあるのかさえわからないからだ.
入り口へと通じる道は見えるところにない.
「天泉」と題された白い大理石の彫刻(安田侃の作品)があるでしょ.あの彫刻の透明な影の中にですよ,詩塾“δ”の入り口への道がひらかれているのは.と,冬のある日の朝の空気が言った.
てやんでえ,お天道さまや蛍の光,懐中電灯や松明や蠟燭の光なら話はわかるが,透明な影なんちゃあ見たこともねえ.見たこともねえものをどうしてあるなんて言えるんだ? と,アルミサッシ職人の呟さんがつぶやく.
呟さん,あなたはそう考えている.さしあたってはそれで十分.太陽の光があるのはあなたが考えるということがあるからなんですよ.あなたが考えるということがなければ,太陽の光があるというこもないということもないわけですから.だから考えるということは透明な図形の無限の重なりなんです.その重なりが太陽の光を脳に見せてくれるわけですから.
呟さんは納得がいかない.つぶやきつづける.やがてそのつぶやきはさらさらと流れはじめ,呟さんはそのせせらぎの中に溶けた水彩絵の具のけむりのように消えてゆく.
それでも,呟さんは詩塾“δ”のれっきとした塾生の一人である.ときどき束の間の通行人のように塾に顔をのぞかせる.塾長の庵他誰亭は不在のときも多いので,そんなときは亀君と世間話に花を咲かせる.温厚な性格の亀君は,呟さんのカウンセラー役に徹し,凪の海へ呟さんをいざなう.なので,ひとしきり世間話に花を咲かせると,シャワーを浴びた後のようにすっきりした気持ちで,呟さんは仕事にもどって行くのだ.
庵他誰亭が詩塾”δ“をひらいたのは,特に理由があってのことではなかった.主が言うには,地水火風の四元素にさそわれているような気がしたからだそうだ.亀君にそんな話をしたら,亀君は二つ返事で協力を申し出てくれた.水の中の透明な立方体も,知られざる天才建築家亀君が用意してくれたのである.
庵他誰亭は気が向いたときにこの塾にやってきて,誰か塾生がいればその塾生と,誰もいなければ亀君と詩の話をする.実を言えば,“詩の”話をするのではなく,“詩で”話をするのだ.というのも,ここではすべてが詩の原石のようなものだから.すべてがそれらに固有の秘密にひらかれた回転扉つきの原石のようなものだから.
正方形の透明なテーブルをはさんだ会話
ある日,sは,庵他誰亭とhin cargo氏とsの娘ナイの4人で,詩塾”δ”の正方形の透明なテーブルを前に,透明な椅子にすわって,パンとサラダとスープの質素な昼食を楽しんでいた.詩塾”δ”はカフェレストランも兼ねているのである.
「ねえs,いま何を読んでるの?」
と,屈託なくナイがsに問いかける.母親がモロッコ人で,ある事情からsの養子になったということもあって,ナイはsのことをパパとかお父さんとかは呼ばない.名前を呼び捨てにするか,“さん”をつけて呼ぶ.それで別に問題はない.
「『顔にあざのある女性たち』.ぼくは著者の西倉実季さんを尊敬するね.」
「一般論を切り崩してゆきながら問題のありかに焦点を絞ってゆく知の姿勢に凛としたものを感じますね.」
と,hin cargo氏が口をはさむ.
「そう,ぼくらの未完のアヴァンギャルド詩学はこういう知の姿勢と裏腹なんですよね.接点は同じ平面上にあるのではないにしても.」
と,庵他誰亭.
「”ぼくら”という語が位相のちがいをふくんでいるのと同じように,この接点にも位相のちがいがふくまれているんですね.そこを見えるようにしたいなー」
と,s.
各人の頭の中で透明な詩作機械が動き出す音がかすかに聞こえる.
「ナイ,”ギルガメシュ”は大学でどんな風に読んでるの?」
と,こんどはsが問いかける.
「人類の古い記憶の一つとしてよ.面白いわ.人類が,さまざまな地域や時代に,それぞれちがった大きな物語をつくり出すつくり出し方にとても興味を感じる
わ.」
「ほら,君はもう詩学の近くにいる.でもね,対象となる作品の詩学の近くに住むだけじゃ詩学を十分に理解したことにならないんだよ.だって,その詩学は対象
作品によって限定を受けているわけだから.他の対象作品にも当てはまる詩学かどうかわからないわけだから.だからまず相対性を留保することが必要なわけ.多
様性の留保って言ってもいいけど.それが詩学入門のファーストステップ.そうでしょ,塾長?」
庵他誰亭は微笑む.
「伝統的な学問の方法論では,一つの限定された対象あるいは対象群において作動している詩学をできるだけ厳密に析出するというのが一般的でしたね.そうして, 注釈の山に山が重ねられ,ある場合には口承によって引き継がれてきているわけです.大学あるいは研究所というのは,そのような知の引き継ぎのための機関だと
考えていいのでしょう.そこでは,批判精神の自由が最大限に尊重されなければなりません.だって,知の厳密さの追求は,何であれ何かの偏見への加担から人間
精神を解放することにあるんですからね.ぼくは大学に残りませんでしたが,大学で自分なりに学んだのはそういうことでした.ぼくはぼくの研究室を脳髄の中に
構築することにしたのです.で,sさんがいま言ったことをぼくなりにパラフレーズすると,詩学入門のファーストステップというのは,一つの対象(作品)や切り
取られた一つの対象(作品)群において作動している詩学の相対性を留保するということになります.」
と,横からhin cargo氏.
ナイの眼が円になっている.
「でも,その研究室からもあなたは自由でありたかったのでしょ?」
と,今度は庵他誰亭が口をはさむ.
「あなたと同じようにね.」
ナイの眼は円のままだ.
「ナイ,心配しなくてもいいよ.いまに君にもわかる時がくるさ.君の脳髄の中にはとても感度の高いセンサーが埋め込まれているから.」
sは透明なカップにコーヒーを注ぐ.香りの空中への署名.ページが自動的にめくられる.