2012.1
詩文集:ないところにあるドア II
沼畔で
「先生,“字,記号,平面形象,あるいは立体形象で書くこと”は,先生にとって“もの”のあらわれに身をゆだねる方法ですよね.」
と,初秋の風が吹きはじめたある日の夕方,亀君が庵他誰亭に話しかけた.
「そうだよ.君にとっての建築と同じにね.それがどうかしたの?」
「最近ちょっと気が塞いでるんです.」
「どうして?」
「“もの”のあらわれに,あまりにもたやすくぼくが身をゆだねているように思えるからです.」
「そんなにたやすかったの?」
「たやすくはなかったんですけど…」
初夏の風に似ているけれども間遠になった蝉の声が混じっているのでそれとわかる初秋の風が,沼の畔の土手の上を吹き抜けてゆく.
「耐えられないかどうかはともかく“もののあらわれの稀薄さ”が問題なの?」
「そうかも知れません.上にも下にも,右にも左にも,どこにも手がかりがない時空間に,これからもぼくはとどまらなければならないんでしょうか.」
間.
「そうだよ.君への“もの”のあらわれとぼくへの“もの”のあらわれとのあいだにある距離は,君と君自身とのあいだにある距離,君と世界とのあいだにある距離に等
しいのだし,それはけっして縮まることのない距離だからね.でもね,この距離の中に見捨てられている訳じゃないんだよ,ひとは.」
「そうでしたね.ぼくはときどきそのことを忘れてしまうんです.距離があまりにもあって,向こうにあるものが見えなくなってしまうので…」
「それはどうも仕方のないことだね.この距離の中に“ひらかれた秘密”としてある光は,目にせよこころにせよ,見えるためにはとても稀薄だからね.でも,君はそ
の光の中にいることを感知している.君の建築はそれを証明しているよ.すばらしいじゃないか!」
「ああ,先生,よかった! 氷の中に光が生まれました.その光が距離を照らし出してくれます!」
間.
「ところで,例の建築の進み具合はどう? 君の天才の新たな証明である地底の透明な通路にしてサロンの重なりである建築の進み具合は?」
「冷やかさないでください,先生!」
「冷やかしちゃいないよ.本心だよ.たとえ君のお祖父さんが最初にヴィジョンを描いた建築でも,君独自の干渉による変容によってしかそれは実現しないのだか
らね.」
「先生,じつはもうかなり出来上がっているんです.」
「だと思ったよ.君のアイディアを聞いてからもう45年は経っているけどね.その通路はどのあたりまで延びているのかな?」
「宇宙の果てまでです.」
「で,ぼくは入れるのかな? その通路の中に.」
「もちろんです.」
亀君はその通路の入り口に庵他誰亭を連れていった.
「ここは地元の漁師の舟着き場です.今日はここから入りましょう.」
亀君が頭の先から消えてゆく.次いで,舟に乗り込む庵他誰亭も足の先から消えていった.
*
庵他誰亭が完全に消えさる前に見た光景:
“ビル・Tのロケットは,すぐ近辺の薄い雪の層を吹き飛ばしたが,小さな広場の残りは,いまだに軽く粉雪をかぶっていた.それは一冊の書物からちぎられた一ページであり,記号と象形文字に覆われていて,一部は読むことができた.”(『2061年宇宙の旅』(アーサー・C・クラーク著 山高彰訳 ハヤカワ文庫 p.298 1995)
訪問者
沼の水の鍵盤を雨の指が繊細なタッチでたたいた11月下旬のある日,詩塾δにめずらしい訪問客があった.
その人物はとても奇妙な風体をしていた.というのも,その人物の輪郭は振動していて,浮世絵の輪郭線のようにとても1本で描くというわけにはいかなかったからである.その人物は,角度によって、幼児にも少年にも成人にも年齢不詳の老人にも見えた.衣服も,世界の数ある民族衣裳の,あるいはきわめて単純な現代の衣裳の,古くもあれば新しい様相を瞬間ごとに垣間見せるのだった.
その声は,知られているどんな声にも楽器の音にも似ていなかった.というのもその声は,無声の声,無音の音だったからである.
庵他誰亭はどんな訪問客に対してもするようにその人物を歓待した.
「よくいらっしゃいましたね.おかけください.コーヒーでもいかがですか.それとも紅茶?」
「それじゃ,おことばに甘えて紅茶をもらいましょうか.」
「レモンティー? それともミルクティー?」
「何も加えない紅茶がいいですね.」
庵他誰亭はガラスのポットにティーバックを一袋入れ,沸騰ジャーポットからお湯をそそぐ.ティーバッグは,ピレネーにトレッキングに行ったひとたちからおみやげにもらったトゥールーズ産のヴァイオレットティーが残っていたのでそれをつかった.
その人物は,特に名乗るでもなく,コーヒーポットからたちのぼる湯気をながめていた.庵他誰亭の方も,名をたずねようともしなかった.というのも,詩塾δにやってきたというただそれだけで,この人物の素性は,庵他誰亭によって半ば知られるものとなっていたからである.名以前のコミュニケーションが成立していたのである.
もっとも,この人物が語ったことばは,すべて庵他誰亭の翻訳である.というのも,庵他誰亭はこの人物と,声のない声,音のない音で話していたのだから.
ヴァイオレットティーを飲みながら,ポツポツと会話がつづいた.
「ヴァイオレットティーですか.めずらしいですね.おいしいですよ.」
「お口に合ってよかったです.それにしても,あなたとお会いするのは初めてなのに,初めてじゃない気がしますね.」
「ええ,私はいつもこの姿でいるわけではないので…」
「そうか.いろんな時に,いろんなところで,ぼくはあなたに会っていたんですね.」
「そうかも知れないし,そうじゃないかも知れない.」
「え?」
「過去と未来はそれほどかけ離れたものではないのでね.」
「ということは,あなたはぼくの未来の記憶かも知れないということですか.」
「そう思いたいのならね.」
「いずれにしても,あなたは乾草に金属が混じった匂いがします!」
庵他誰亭には,この人物が遠さの中に近さを合わせもっているのが紅茶の舌触りのように感じられるのだった.
「私を招いたのはあなたですよ.」
と,その人物は言いながら少し振動した.
電子の舞踏.氷河のクレバスの中でのiの自動記述.
「私があなたを訪問したのはあなたがことばの余白の泉の水を飲んでいるからですよ.」
庵他誰亭は晴れやかに笑った.するとその人物は,来たときと同じように,ふっと空気の中に消えていった.雨の音楽だけを後に残して.
庵他誰亭は,透明な椅子にすわり,透明なテーブルの上に透明な紙をひろげて,透明なペンで透明な文を書き始めた.タイトルは「肉と骨の中の光のswing」.
はるか遠くで,救急車がサイレンを鳴らしていた.
絵画の光
─セザンヌの場合─
もうかなり前のことだけれど,sは少しくわしくセザンヌの絵画について調べたことがあった.大回顧展が1995年にパリでひらかれた時には,なけなしの金をはたいてパリまで飛んでいき,長い行列に加わってグラン・パレの会場を行きつもどりつもした.実物を見ずに絵画について語ることは馬鹿げているからである.絵画は語るものである前に見るものだからである.という考えが脳髄のどこかに楔のように打ち込まれていたからである.
確かにこの考えは有無を言わせないimpactをもっている.複製技術の高度な発達で,実物以上にはっきりと複製で絵画を見ることができる時代になったとはいえ,実物を見ずに絵画について語ることは軽薄のそしりをまぬかれない.それだけでなく,実物の知覚にもとづかず想像力だけで絵画にアプローチすることには何かしらある重大な欠如感がつきまとうものである.という気がする.
確かにその通りなのだが,それなら,グラン・パレの会場でセザンヌの絵画を見たsに複製でセザンヌの絵画を見たとき以上の新しい発見があったかということになると,多くの観客の一人として実物を見たという以上の新しい発見はなかったような気がする.というのも,一つの作品の前にたたずんでその作品について子細に検討する時間的な余裕も有効な手段も専門の研究者ではない展覧会の一観客には許されていないからである.それでも,セザンヌの絵画をこれほどたくさん実物で見ることができるということに,sはほとんど陶然とすると同時に,セザンヌの絵画の中にあふれている光をあらためて浴び直していた.
たぶんそれが重要なことなのだ.レアリテ(“もの”の実在感)によって精神を打たれることが.思えば,セザンヌ自身,彼の精神が受けた“もの”による打撃を絵画制作という行為を通して可能なかぎり明晰にすることに生涯を賭けていたのではなかったか.一人の画家によってそれまでに類例がないほど明晰となったレアリテ.sがセザンヌの絵画の中に感じる光というのはこのレアリテの光なのである.だから,この光には自然の光と精神の光と絵画の光がまじりあっている.
自然の光.物理学的に考えられた自然の光とひとがその身体とともに精神で感受する自然の光は同じ光でありながらそのあらわれ方は著しく異なっている.前者はいわば万人にとってほぼ等しいあらわれ方であるのに対して,後者は土地,時代,季節,時刻,その光の中にいるひとの気分,感受性,精神の明晰度などによって文字通り千差万別なあらわれ方をする.厳密に言えば,この光は,エペソスの人ヘラクレイトスが言ったとされる“Τα(タ) Πάντα(パンタ) ῥεῖ(レイ) 万物は流転する”と同様に時間にゆだねられている.ということは,ひとは同じ光をけっして見ていないということになるのだろうか.たぶんひとは,異なったあらわれ方の下で同じ光を,同じあらわれ方の下で異なった光を見ているのである.同じ光と異なった光は二重なのである.というのも,ヘラクレイトスが洞察していたように,ことばがなければ,光があるということもないということもなく,万物が流転するということも流転しないということもないからである.まさしく,ことばとともに対立する異なったあらわれと同じあらわれが相互貫入しながら並存しているのである.ことば,すなわち精神の光.その泉.
ことば.精神の光.“もの”を内側から照らし出す光の泉.“もの”による打撃に応えて内側の光が外側の光と混じり合い,万物の共振動が新たに生じる.セザンヌが印象派の画家たちと共有したのはこの経験だろう.ところで,画家にとって,この光の混じり合い,この万物の共振動はカンヴァスの上でしか生じない.言い換えれば,画家にとっては絵画が彼本来のことばなのであって,ことばの代理として絵画があるわけではない.画家のことば,すなわち絵画.絵画の光.古来,洋の東西南北を問わず,すぐれた画家たちはそのことを知悉していた.確かに,さまざまな制約の下でにせよ.
セザンヌは筆触(タッチ)によって画面の中に絵画の光を出現させる.“もの”は輪郭を失いはじめる.なぜなら,絵画の光によって輪郭は分割の場ではなく共振動の場となるからである.とはいえ,“もの”の輪郭が完全に失われることはない.というのは,“もの”の単独性は一方で共振動にとっての多重焦点でありつづけるからである.
書記の傘が,こんな風にsのセザンヌ経験をトランスクライブしていると,小春日和の光の下でひなたぼっこしていたhin cargo氏がそっと近づいてきて,傘にこう語りかけた.
「sさんは詩文の光の中で,自然の光,精神の光,絵画の光をとらえ直そうとしているんですね.わが意を得たり!です.これはδ’s library収蔵の貴重な手書き原稿になりますね.たとえ電子文書の中に手の痕跡が消えているとしても.」
「手の痕跡は詩文の光にとけ込むことで消えたんじゃありませんか,hin cargoさん.」
と,不意に姿をあらわした庵他誰亭が口をはさむ.
時刻は午前10時を少しまわった頃である.
「ところで,sさんはいまどこ? 傘さん.」
とhin cargo氏.
「今日は仕事に出かけています.私たちたちを養うためにね!」
「おっと,やぶへびなことを聞いてしまった! Vive notre pauvre patron! われらの最大の敬意をsさんに!」
hin cargo氏と庵他誰亭は顔を見合わせる.
「sさんがこけると私たちも生きていられないわけですから,大事にしなくちゃ.」
と傘.
「もちろん!」
hin cargo氏と庵他誰亭が声を合わせる.
*
「セザンヌがサント・ヴィクトワール山を好んでモチーフにしたのは,少年のとき,ゾラやバイユと一緒に野山に遊んで浴びた自然の光の記憶が,そこにいっぱい
つまっていると感じていたからかも知れませんね.」
「その記憶には,読書やプッサンの絵画を通して浴びた古代ギリシャの光も混じっていますよね.」
「記憶の中の光であると同時に現に眼の前にある光.そして絵画の中で創造し直される光.何という澄明さの不連続な連続が画面にみなぎっていることでしょう!」
「所有されることを拒絶する光の輪の多重照応!」
「見るひとの精神の奥底に湧き出る光の泉の呼び水となる光の魔法の手!」
*
セザンヌの絵画の中の光は,時空をこえて,いま,δ’s libraryのある建物のベランダの外にひろがる空に混じる.この季節,風で空気が掃き清められた朝は,ここから白い富士山が見える.夕方にも,赤い背景の上に黒ずんだシルエットで.
“もの”のまばたき.詩文の光の新しい誕生…